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これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年3月12日「主の怒りと悲しみ」マルコによる福音書3章1~6節

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 前回に続き、今回の話題も安息日です。そして今日の箇所、主イエスを殺す相談で、マルコ福音書の第一部は終わります。前回の麦の穂を摘むのと比べて、今日の方が「いやし」であり、会堂での出来事ですから、更に深刻です。今日の箇所は、主イエスの怒りと悲しみがはっきりと描かれている珍しい箇所です。5節。片手の萎えた人をいやす時に、主イエスには怒りと悲しみがあります。そもそも「人々」は、主イエスを訴えよう、陥れようという意図で注目しています。1・2節。片手の萎えた人(人間という言葉です)に対する、憐れみも同情も共感もありません。主イエスはこの人に注目を集めた上で、大切なことを問います。3・4節。主イエスの問いは厳しい。善か悪か、命(魂)を救うか殺すか。二つに一つであって、中途半端な「中間」はありません。確かに私達の生きる世界には、白か黒かではなくて灰色の部分があります。これが分からなくて常に「あれかこれか」では、様々なことを見落とし切り捨てることになってしまう。しかし信仰の決断においては、(ヨハネ福音書がそのことを強調しているように)二者択一であって、中間や傍観はありません。主イエスの問いに答える者は誰もいませんでした。「彼らは黙っていた。」だから主イエスは、怒ります。律法遵守を全てに優先する「かたくなな心」をみて、悲しみます。主イエスを十字架にかけて殺したのは、まさにこのような私達人間の「かたくなな心」です。この箇所でも、6節。普段は、全く意見の合わない・相容れない人々が主イエスを殺すために相談をはじめます。私達の「かたくなな心」こそが、主イエスの怒りと悲しみをうみ、主イエスを殺します。その私達の「かたくなな心」を柔らかくほぐすために、思いを神に向け、隣人に向けることができるように、主イエスがして下さったことを私達は受難節に当って思い巡らしましょう。