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これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2016年10月2日「主の日は来る」 テサロニケの信徒への手紙一5章1~11節

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 前回に引き続き、「再臨」の話です。前回は、「先に眠りについた人々」の復活の希望が語られていました。生きている者よりも先です。それでは再臨はいつなのか。再臨待望がとても強かったテサロニケの教会の人々には、このことは切実な問いでした。しかしパウロは1節。書く必要がないと言います。それは、2節。夜の盗人のように突然だということをよく知っているはずだ(つまりパウロ達がテサロニケにいる時に教えていた)ということです。再臨の日はまた、「主の日」とも言います。3節。妊婦の産みの苦しみと同じで、確実に来ると分かっていても、正確な日時は決められないし、逃れることもできません。しかしテサロニケの兄弟達は、事情が異なります。4・5節。私達は、光の子、昼の子なので、突然ではないと言います(この5節で突然「あなたがた」が「わたしたち」になっていることも注目)。6~8節は、この事実に基づく勧めです。目を覚まして身を慎んでいる、これは、最初に語られていた、信仰・希望・愛です(武具の例えに関して…)。9.10節はその根拠です。この手紙でパウロが救いの事実そのものを語る数少ない箇所です。そしてその目的は、(前回にも語られましたように)「主と共に生きるようになるため」です。「目覚めていても眠っていても」は、生においても死においても、です。今私達は、主イエスの十字架と復活の時と、再臨の時の間の時を生きています。私達は既に今、聖霊において(目に見えない仕方ですが)主と共に生きています。しかし再臨と共に、私達は(目に見える仕方で)誰にでも分かる仕方で主と共に生きます。そのときを目指して、11節。ここにもパウロの彼らに対する愛と配慮があります(「現にそうしているように」)。現代の私達に必要なのは、日時を詮索しないようにという勧めよりも「主の日は来る」ことへの待望を見失いがちであることに対してのように感じます。