これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2016年9月11日聖なる生活 テサロニケの信徒への手紙一4章1~8節

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 今回から新しい単元に入ります。前回までのところで、テモテの報告を受けたパウロが(まるで福音を告げ知らされた時のように)喜んでいること、そしてテサロニケの教会の人々の「信仰に必要なものを補いたいと」願い祈っていることをみてきました。今日の箇所からは、パウロが、そのために、具体的な勧めをしています。まず1節で、パウロはテサロニケの人々が既にそのような歩みをしており、「今後も更に続けてください」と励まします。以前にみましたように(2章4節ほか)、私たちが洗礼を受けてキリスト者とされたのであれば、神に喜ばれる、神を喜ばせることこそが、生きる目的であり、またその時にこそ私たちも、大きな喜びに生きます。神を喜ばせるためには、何よりも神の御心に忠実であることが大切です。だからパウロは神の御心を(その全てでは勿論ありませんが)書きます。3節前半。それでは、聖なる者となるとは、具体的に何を指しているのでしょうか。3節後半~6節前半。実は、妻(4節)と訳された言葉は、「器」という言葉です。いずれにせよ、当時の常識を生きていた異邦人のよう、情欲におぼれないで性的にも聖なるものであることが求められています。パウロは、罰(6節後半)と神が招かれた目的(7節)と拒むものへの警告(8節)をもって、彼の勧めを根拠づけています。
 しかし「聖なる生活」と言われると、何かおもはゆいような思いを感じる方が(私も含めて)多いのではないでしょうか。「聖なる生活」に対する憧れと共に、「自分には無理だ」という感覚が私たちにあるからです。しかしパウロは、何か特別に難しいことを求めているのではありません。私たちが神に喜んで頂こう、神の御心に従って生きようと願うならば、神が私たちの内に与えて下さっている聖霊(洗礼を受けるときに一回限り、また更に日々新たに与えられる)を見つめ、この聖霊に従おうとします。そしてそこには、何か無理をするというのではなくて、聖なる生活が形作られていきます、神によって。