これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年2月26日「断食とは何か」マルコによる福音書2章18~22節

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今日の聖書箇所は、断食問答です。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は、断食していましたが、主イエスの弟子たちはしていませんでした。そこで人々が尋ねます、なぜしないのか。18節。主イエスは答えます、19・20節。3章6節の殺す相談まで、少しずつ敵意・反感が強まっていきます。主イエスの答えは明白です。花婿である主イエスがおられるのに、断食などできない。今はそのような喜びの時なのだ。
 断食は、主イエスの山上の説教にもありますように、祈り・施しと並んで、ユダヤ教では三つの徳の一つでした(マタイ福音書6章参照)。しかし問題は、徳・敬虔が、本来は「手段」にすぎないのに、「目的化」しやすいのです。手段の目的化の幾つかの例をみてみましょう…。断食をする目的は、食べ物を絶つことで、思いを全て神様に向けることです。ところが、主イエスが批判するような「見せるための」断食になってしまったり、断食自体が目的になってしまったりします。更に、20節の「奪い取られる時」は、十字架と昇天のどちらととるかで意味が変わってきます。どちらもありえますし、キリスト教の「徳」の一つとして、断食を捉える考え方もあります。実際に断食をしている方やレントの期間の断食などがあります。しかしキリスト教は自由ですから、昇天ではなくて十字架と捉えることもできます。
 最後は二つの例えです。21・22節。この例えから、古いものを大切に、というメッセージもありえますが、むしろ、古いものと新しいものは相容れない、新しいものを受けいれるならば、古いものは断念せよ、ということでしょう。主イエスがいらしたことで、「神の国は近づいた」。だから、主イエスが共におられる神の国の喜びの先取りとして今を生きるのであって、福音という新しいメッセージに相応しく、器である私達も聖霊によって新しくなりなさいということです。あなたは福音の喜びに生きていますか。

2017年2月19日「招かれるのは誰か」 マルコによる福音書2章13-17節

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 今日の聖書箇所は、主イエスが何のためにこの地上に・私達の所へ来られたのかが、ご自身の言葉で語られています。「罪人を招くために」。この主イエスの言葉は、ファリサイ派の律法学者の批判の言葉から導き出されます。まず主イエスが徴税人レビを招き、レビが主イエスに従います。13.14節。レビは収税所に座っていますから、徴税人の総元締めのような人物ではなくて下っぱでしょう。それでも徴税人ですから、一般の人々から(特にファリサイ派のような厳格な人々から)嫌われています。そのレビの家で主イエスは食事をなさいます。15節。天国の食事の先取りです。主イエスは、そこで罪人や徴税人と共に食卓を囲みます。そしてファリサイ派の律法学者はそれを非難します。16節。彼らの常識からすれば、それはとても非常識なことでした。この箇所でマルコが強調していることは、二つあります。まず第一に、主イエスは「教えられ」ました(13節)。主イエスの宣教においては、癒しの・奇跡の業が中心ではなくて、福音が中心です。第二に、大勢の人は、「従っていた」(15節)。
 主イエスは、弟子たちに言うファリサイ派の律法学者に答えます。17節。この主イエスの言葉について、三つのポイントに絞ってみてみましょう。まず第一に主イエスが招かれたのは、最も単純に・素朴には、「罪人」だということです。当時義人は神の国に入ることができて、罪人は地獄へ落ちると考えられていました(復活を信じないサドカイ派などは別として)。しかし主イエスは、「罪人」を招いて、隔ての壁を取り払い、誰にでも神の福音が届くようにしました。第二に、それでは「罪人」ということを更に深く考えるとどうでしょうか。パウロの言葉(ロマ3章9節)から明らかなように、自分は正しいと思い込んでいるファリサイ派の人々もまた実は罪人であり、主イエスに招かれています。第三に、それゆえ私達は「罪人」として主イエスから招かれていることを自覚しましょう。

2017年2月12日「誰の信仰か」マルコによる福音書2章1~12節

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 今日から2章に入ります。今日の箇所は、この福音書で五つ目の癒しであると共に、このあと五つ続く論争の一つ目になります。1章と2章を結んでいます。4節までが状況説明です。当時の家屋は平屋一部屋が普通で、外階段があって、屋上も様々な事に使っていました。また屋根も、雨期の前に吹きかえます。だから私達が想像するよりは、屋根をはがして穴をあけるのは、困難な事ではありません。それでも、かなり大胆なことです。想像してみて下さい…。ザアカイ(ルカ19章)を思い起こさせるような必死さがこの四人にはあります。この四人と、中風の人の関係は分かりませんが、「何とかしてあげたい」という強い想い・愛があります。そして主イエスは、この四人の信仰をみました。5節。この箇所ではじめて、信仰が名詞で出てくるのですが、今までの流れからすると、主イエスは奇妙な事を言っておられるのではないでしょうか。四人の願いは恐らく「癒し」であって、主イエスの宣言なさった「罪の赦し」ではありません。しかし主イエスは罪の赦しを宣言なさる。決して因果応報ではありません(ヨハネ9章以下参照)が、この中風の人の一番根底にある問題は、罪の問題なのだと主イエスは分かっておられます。この人にとって一番大切な・必要な事は(本人にはまだ分からなくても)罪の赦しです。しかし次の数人の律法学者との対話(?)をみると、この「罪の赦し」がいかに難しく大きな問題であるかが分かります。6~10節前半。律法学者の人々の疑念はある意味で尤もです。主イエスが神(の子)であられなければ、その通り「神を冒涜」することです。しかし教会もまたキリストのからだとして罪の赦しを宣言するように、主イエスの権威として、罪を赦すことがあります。そして癒しの業があります。10節後半から12節。主イエスは中風の人の信仰ではなくて、彼を連れてきた四人の男の必死の信仰をみました。私達もまた「とりなし」の可能性を身近な不信仰の人々のために祈りましょう。

2017年2月5日「新しい心、新しい霊」エゼキエル書36章22~27節

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 今日の聖書箇所は、ローズンゲン(日々の聖句)の年の聖句です。久里浜でも名古屋でも年の最初の新年礼拝で(講解説教をお休みして)その年の年の聖句に聴いてきましたが、今年は、マルコによる福音書の講解説教に入ったばかりでしたので、マルコにしました。そして今日、幕張教会では三里塚との講壇交換を予定していたので説教の予定を開けていましたが、先方の都合がつかず、空いてしまったので、年の聖句を取り上げます。
 今日の聖句の26節前半が、今年の年の聖句です。捕囚の民が捕囚のまま終わることはない、必ず神は解放してくださる。しかも、新しい契約の下で、全く新しく神の民とされて。次の37章には、エゼキエル書で最も有名な箇所の一つ、枯れた骨の復活があります。主なる神は、「お前たちのためではなく、お前たちが行った先の国々で汚したわが聖なる名のために行う(22節)」と宣言なさいます。神は神の民を愛されますが、その愛が根拠ではなくて、神の名が聖なるものであり、神が主であることが明らかになるように、この業を行います。これは、神の民や神の民への愛よりもはっきりとした確かな根拠です。神が清い水によって清めます(25節)。ここには、洗礼の原型があります。洗礼とは何かを考える上で大切なことは、私達人間の何かではなくて、神の業であるという事実です(聖書研究祈祷会のローマ書6章も参照)。そして私達には、新しい心、新しい霊が与えられます。罪を犯して神を離れた神の民・イスラエルがそうであるように、私達もまた、洗礼を受けて神の民となったはずが、様々な形で彷徨ってしまうこともあります。しかし神は、そんな私達を愛し慈しんで、神の名が聖なるものであるように、私達を再び内側から新しくしてくださいます。そのような神様の招きに信頼し、この神を信じて今年も歩みましょう。

2017年1月29日「御心ならば」マルコによる福音書1章40~45節

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 今日の聖書箇所で主イエスがなさっておられるのは、重い皮膚病の方を癒すことです。出来事自体は難しくはない易しい事柄です。三つのポイントをみていきましょう。まず第一に、この方自身の信仰です。40節。十字架や復活よりも前の出来事ですから、救いについてよく分かっているわけではありません。しかし、「この方ならば癒す(清くする)ことができる」と信じます。論理的・体系的に整った信仰ではなくて、まっすぐに純粋に信じることが大切です。
 第二に、お癒しになられたときの主イエスの気持ちです。41・42節。「深く憐れ」んだ。これは、自分の内蔵までも痛むようにして共感したという言葉です。更に、写本によっては「お怒りになって」という言葉のものもあります。主イエスは病のゆえに苦しみ、さらには社会的・宗教的にも苦しめられている者を深く憐れみ、あるいは、そのような社会のあり方に憤って、癒します。
 第三に、癒した後の出来事に注目しましょう。43~45節。ここには以前にもお話致しました「メシアの秘密」のモティーフがあり、更に、それでもなお広まっていく主イエスの評判があります。しかしそればかりではなくて、主イエスは、「ただ、…」と命じておられます。これは単に主イエスが、当時の律法に従って行動するようにと勧めただけではなくて(勿論それもありますが)、この方が、完全に社会復帰することを望まれたということです。
 最後に、「御心ならば」について、ゲツセマネの祈りを参照して、思いを深めましょう。何でもおできになる神様が、しかし苦しみを必ず排除なさるわけではない、そこには神の主権と神の(私達には秘められた)計画があります。

2017年1月22日「祈ることと宣教と」マルコによる福音書1章35~39節

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 35節。前回、主イエスは、ペトロのしゅうとめを癒した後、日が暮れて(安息日が終わって)大勢の人々を癒し、悪霊を追い出しました。どの位大勢の人々を癒したのか、その後で休息をとる時間があったのか、なかったのか(いつ頃終わったのか)、その辺りのことは(描かれていないので)分かりません。主イエスがまだ暗いうちに出かけられた場所は、「人里離れた所」(荒れ野)です。この箇所でまずみるべきことは、主イエスが祈られたこと、そして祈りにおける神との交わりをとても大切になさったことです。主イエスの祈りを多く描くのはルカですが、マルコでもこの箇所や、水上歩行の前や、ゲツセマネの祈りなど、大切な場面では、主イエスが祈られたことを描きます。神との豊かな交わりこそ、主イエスのあのような激しい宣教活動の源泉です。
 この主イエスの祈りを妨げた(中断させた)のは誰でしょう。36・37節。ペトロたちです。昨日に引き続き、多くの人々が癒しを求めて集まっている、探している。そのことを主イエスに伝えます。主イエスは何と答えるでしょう。38節。前々回の、汚れた霊につかれた人の癒しでも、中心にあったのは、奇跡の業ではなくて、「権威ある新しい教え」でした。そして、主イエスは、神への祈り・神との豊かな交わりを通して、ご自分の使命、何のために「出てきた」のかを再確認し(主イエスを求めて探していた人々のもとへ行くのではなくて、行くことをはっきりと拒絶なさって)、近くのほかの町や村へ宣教することを宣言なさいます。そして21節からの一纏まりの締めくくりの言葉として、39節。主イエスにおいては、祈ることと宣教とは、切り離せない、一つの事柄です。私達も、徒に活動するのではなく、しっかり祈りつつ、神から与えられた使命を果たしていきましょう。

 

2017年1月15日「知っていることと信じること」マルコによる福音書1章29~34節

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前回、主イエスの初めての癒しがありました。汚れた霊は、主イエスの正体を「神の聖者」と見抜きますが、従おうとしません。まだ主イエスが誰であるか本当には分かっていなくても従った四人の漁師とは対照的です。今日の箇所は安息日(土曜日)の午後(から)の出来事です。29節。四人の弟子たちは全てを捨てて主イエスに従いました。しかしそれは、家族などとの関係を全て絶つことではありません。この箇所で、シモン(ペトロ)たちの家へ行きます。妻(この箇所には出てきませんが)もしゅうとめも救いに入れられていきます。30節。色々な推測ができますが、主イエスはこのしゅうとめを癒します。31節。「最も小さな癒し」などと言われます。大切なことは、このしゅうとめが一同をもてなす(ギリシャ語の表現から、一回限りのことではなくて、繰り返される)ことです。主イエスのサービスを受けた私達が今度は主イエスや他の人々にサービスします。夕方までは安息日なので、「人を連れて行く」ことも、(厳密には)「癒す」こともできません。32・33節。会堂でのことが口伝えに広まっています。「皆」とか「町中の人」は、マルコ福音書記者らしい誇張表現ですが、実際に大勢の人々が集まってきたのは事実でしょう。そしてその人々を主イエスは癒されます。今日の聖書箇所最後、34節。
 今日の箇所から、三つのポイントをお話ししましょう。まず第一に主イエスが、「悪霊にものを言うことをお許しにならなかった」意味です。近代に入って「メシアの秘密」ということが言われるようになりました。「時が来る」まで、主イエスの正体、メシア(キリスト、神の子)であることが知られてはならない。ただし、第二に、それでも主イエスの評判は広まっていきます。主イエスは自分のためではなく、必要な人々を憐れんで癒しますが、そこに人の子の力は溢れていきます。第三に、前回の汚れた霊と同様に、「知っている」だけの悪霊たちに救いはない、信じて従っていく人々に救いはあります。