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これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年1月8日「権威ある新しい教え」

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 前回、四人の漁師が弟子になりました。主イエスの招きに、まっすぐに「すぐに」応えました。そして一行はカファルナウムに着きます。(その日ではありませんが)安息日に会堂で主イエスは教えます。21・22節。22節の、「人々が非常に驚いた」理由には二つの解釈があります。一つには、(当時権威があると一般に認められていた)律法学者の権威をマルコ福音書記者が否定しているのだというものと、そもそも律法学者は神の権威ある教え、律法を解釈するだけで権威があるわけではない、というものです。後者のほうが自然だと思います。そして私達説教者は、律法学者がただ権威ある神の教え、律法を解釈したにすぎないように、権威ある教えを語ることができるのはただ主イエスのみであって、私達はそれをお伝えするに過ぎません。ただしそこで聖霊が働いて、私達説教者の小さな弱い人間の言葉が、神の言葉、イエス・キリストの言葉、権威ある言葉として用いられます。単なる聖書の解説では、説教は意味がないのであって、ここで神の言葉の出来事が起こってはじめて、説教として意味をもちます。主イエスの教えの中身はこの箇所では触れられていませんから、何よりも神の福音、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」を語ります(更にマタイに描かれているような「反対命題」も語ったかもしれません)。
 23~26節。汚れた霊に取りつかれた男の癒しです。ここでは癒しの奇跡そのものではなくて、そこで示される主イエスの権威が焦点です。主イエスの正体、神の聖者であることを知っているかどうかが問題ではなくて、この権威、新しい教えを受けいれてこれに生きるかどうか(汚れた霊とは真逆に)が問題です。この権威に従って生きる時、私達はこの世界のあらゆる権威(があるかのように見せるもの)の全てを相対化し、自由です。

2016年1月1日「すぐに網を捨てて」マルコによる福音書1章16~20節

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 一回休んで、今日からマルコに戻ります。今まで、主イエスはヨハネから洗礼を受け、荒れ野の40日間を過ごし、そして前回、公生涯がはじまる、神の福音を宣べ伝えはじめました。今日の箇所ではじめて、主イエスは発言だけではなくて、具体的に活動を致します(新年最初の礼拝に相応しい箇所です)。16節。極めて短い描写です。ルカやヨハネを読みますと、このときはじめてこの四人の漁師と知り合ったのではなさそうですが、マルコはどちらとも描きません。ただ主イエスはガリラヤ湖畔を歩いておられ、網を打つシモンとアンデレの兄弟をみます。そして声を掛けます。17節。魚を獲る漁師から、人間をとる漁師へ。この転換は何を表すのでしょう。以前この箇所で説教を致しました時には、「魚はとると死んでしまうが、人間はとると本当に生き生きと生きることができるようになる点が正反対なのだ」とお話ししました。それは事実ですが、それだけではなくて、実は人間もとられるといったんは死ぬ、だからこそ、復活の命、永遠の命を豊かに生き始める、そのことを知っておくことは大切です。主イエスは、この四人を(そして更に多くの弟子たち、私達までも)人間をとる漁師へと招きます。そしてその最初にまず、主イエスご自身が「人間をとる漁師」となって、ご自身がお語りになる「神の福音」を生きる者へと変わることを促しておられます。
 18節。シモンとアンデレの兄弟はすぐに網を捨てて、従います。19・20節のヤコブ・ヨハネの兄弟も、多少異なりますが、大きな違いはありません。それまで生きてきた生活を捨てて、新しく生き始めます。洗礼を受けてキリスト者になるとは、今までの自分に更に敬虔な何かを足し算することではない。全てを捨てて変えられる。しかも「すぐに」。さあ、新しい年、この原点に立ち返って歩みだしましょう。

2016年12月25日「地には平和」ルカによる福音書2章1~20節

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 クリスマスおめでとう。今日はマルコの講解説教を一回だけお休みして、ルカの降誕の記事に聴きます。といいましても、この箇所全体を丁寧にみるのではなくて、大まかにみつつ、三つのポイントだけをお話致します。
 舞台設定は、住民登録の時です。ルカ福音書記者が主イエスの出来事を歴史的に位置づけようとしています。住民登録の際には、自分の町へ行かなければならないので、ヨセフはベツレヘムへ行きます。こうして旧約聖書のベツレヘムで救い主・メシアはお生まれになるという預言が成就します。一つ目のポイントは、主イエスがお生まれになって寝かせられたのが、家畜小屋の飼い葉桶だということです。それは、救い主がお生まれになるのに(一見全くそうではありませんが)まさしく相応しいことでした。二つ目のポイントは、この喜びの知らせが伝えられたのが、羊飼いたちであったことです。羊飼いとはどのような人々なのか。全く逆の二つの解釈があります。指導者としての羊飼いと、下層の厳しい労働環境に置かれた労働者。ルカはこのことについては何も語りませんので、各自思いめぐらしてみてください。そして三つ目、最後に、天の大軍の賛美の中身です。14節。「御心に適う人に」については、昨日のキャンドルサービスでお話ししました。これは単に天の大軍の賛美の歌声ではなくて、神様ご自身の意志・願い・求めです。主の祈りの第一の祈りと同様に、天に関しては事実そうなのですから、その事実が私達にもきちんと分かるように、ということです。そして「地には平和」も、私達人間の罪が力を振るわないならば、喜びの事実でありましょう。しかし現実は、私達人間の罪によって、戦争・暴力・搾取などがはびこり、平和とは言えません。だからこそ、主イエスがお生まれになって私達一人ひとりの心に平和の灯をともし、十字架によって罪を滅ぼす必要があります。

2016年12月18日「時は満ちた」マルコによる福音書1章14~15節

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 前回は、荒れ野の40日間、試練の時でした。今日はその後、宣教・公生涯のはじめです。その開始の合図は、洗礼者ヨハネが捕らえられたことです。(捕らえるという言葉は、「引き渡される」(主イエスのご受難の箇所で出てくる)ですので、逮捕ではなくて死後と読むこともできます。)ヨハネの予備的な活動の終わりが、主イエスの活動のはじまりです。14節。場所はガリラヤです。ユダヤからみると(サマリアのように敵対視されてはいないものの)歴史的な流れから、異教の影響を強く受けていると馬鹿にされていました。主イエスは、自分の育ったところがガリラヤのナザレだからというだけではなく、「中心」ではなく「辺境」からこそ、福音を語りだそうとなさったのではないでしょうか(これはご降誕の家畜小屋にも通じる)。そして主イエスが宣べ伝えたのは、「神の福音」です。「これぞ福音だ、こちらに来なさい」という、人間による偽物の福音が当時も今も溢れています。その中で、そのような薄っぺらいものではなくて、全知全能で全てをお造りになられた神の福音を主イエスは語ります。
 その言葉は、15節。二つの事実の告知と、二つの命令です。この言葉は、単に主イエスが語りだされた最初の言葉であるだけではなくて、主イエスの宣教の全体を纏めるものです。時(カイロス)は満ちた。神は創造のはじめから、私達人間が自分たちの力・努力によっては(律法によっては)救いに達しないことを知っておられ、そんな私達を救うための特別な「時」を備えておられた。その「時」が満ちた。それは神の国(支配)が近づいたということです。主イエスが来てくださったことで時は満ちました。私達がなすべきことは、二つだけ、悔い改めること(神様の方へと向きを直して神様へと立ち返ること)と、私達に何の功しなくただ恵みとして救いを与えてくださる福音を信じることだけです。

2016年12月11日「聖霊に送り出されて」マルコによる福音書1章12~13節

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 前回、主イエスは洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そしてすぐに、聖霊は主イエスを荒れ野に送り出します。12節。この「送り出す」は、「強いて(無理やり)行かせる」という言葉です。父なる神は、主イエスを「わたしの愛する子」と認証すると直ちに、荒れ野へ送り出します。荒れ野には、様々な意味があります。一つには、神があえて手出しをなさらないで、サタンに任せてしまわれているところです。今一つには、訓練を受ける場所、試みによって育てていただく場所です(エジプト脱出の時の荒れ野の四十年のように)。サタンは、誘惑するものであるのと同時に、試みるものです。13節も「誘惑する」ではなくて、「試みる」と訳すべきだという方もいます。13節前半。主イエスは(今日の箇所にはっきりとは書かれていませんが)四十日間のサタンの試みに勝ち、公生涯へと歩みだします。
 この際の特徴として、マルコは二つのことを描きます。13節後半。一つは、「野獣と一緒におられた」。これは、敵対的な(恐ろしい)野獣と共にいたが大丈夫だった、主イエスは野獣に負けなかったという意味にもとれますが、それよりも、終末のしるし、前回の洗礼と同様に、終わりのときが主イエスにおいてはじまったという意味でしょう(イザヤ書11章参照)。いま一つは、「天使たちが仕えていた」。マタイやルカでは、荒れ野の誘惑では「断食」がありますが、「仕える」は、「給仕をする」という意味なので、マルコでは断食ではなかったと解釈することもできます。いずれにせよ、主イエスは、神の福音を宣べ伝える前に、まず試みにあい、この試みに打ち勝つことが必要でした。
 私達の人生にも様々な苦難がありますが、「聖霊に送り出されて」神が私を育てようとして、この現代の「荒れ野」なのだという自覚が、神の民として生きる上で大切です。

2016年12月4日「天が裂けて」マルコによる福音書1章9~11節

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 今日でマルコによる福音書も三回目、二番目の聖書箇所です。教会の暦の上では、今日からアドベント(待降節)第二週です。御子のご降誕への備えの季節、御子イエス・キリストの公生涯の最初の所を学ぶのも時宜に適っています。マルコが、洗礼者ヨハネの出来事の後で、最初に主イエスの記事を書くに当って選んだ出来事は、主イエスが洗礼を受ける場面でした。9節。マタイやルカのように、このときの洗礼者ヨハネの躊躇や詳しい解説は一切描かないで、マルコはまっすぐ主イエスがヨハネから洗礼を受けたこと、その時どんな出来事があったのかだけを描きます。ヨハネ教団と主イエスの関係について、様々な推測がなされますが、私達はただ描かれていることに注目しましょう。
 10・11節。この箇所を読むのに、とても参考になります旧約聖書箇所は三つあります。創世記22章(イサク奉献)、詩編第二編(王即位の歌)、そしてイザヤ書42章(神の僕の歌の一つ目)です。最初の表題(1節)に呼応して、「わたしの愛する子」という声が聞こえます。(ここでもルカやマタイのように、客観的事実としてではなく、主イエスの体験として描かれます。)前回、霊による洗礼ということで、主イエスが授ける洗礼がそれまでの沐浴やヨハネの洗礼と異なり、神の霊、キリストの霊がその人の内に与えられる出来事であるということをみました。まさにその最初の方として、主イエスが描かれています。これはとりもなおさず、主イエスは、神であること、神の子であることに固執しないで(フィリピ2章6節~)、私達の只中に洗礼を受ける方として来てくださったということです。私達罪人と同じ(罪は一つもおかしておられないのに)人間になって下さいました。そして洗礼を受けた時に、「天が裂け」ました。主イエスが十字架に死んだ時に、神殿の垂れ幕が裂けたのと呼応して終わりの時がはじまりました。 

2016年11月27日「新しい洗礼」マルコによる福音書1章1~8節

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 先週からマルコによる福音書に入りました。教会の暦の上では、今日からアドベント(待降節)に入り、新しい一年がはじまりました。先週は、主に5節までの箇所から、表題としての1節、また公生涯の前にどうしても描く必要があった洗礼者ヨハネのことをみました。神の恵みである洗礼を受けるためには、まず、(これもまた神の恵みである)悔い改めが必要です。
 今日は、6節からです。この描写は、ヨハネがとても清貧な荒れ野の隠者のような姿・生活をしていたことを物語ります。そしてヨハネは語ります、7・8節。どのような悔い改めが必要かなど、他の福音書に描かれていることは全て省いてマルコ福音書は、主イエスの先触れとしての自覚だけを語ります。「履物のひもを解く」のは当時奴隷の仕事ですから、自分は後から来られる主イエスに比べれば、奴隷以下の存在だと言います。そして自分が授ける洗礼と、主イエスの(といっても主イエスご自身が洗礼を授けるのではありませんが)洗礼の違いを語ります。
 当時ユダヤ教では、清めの沐浴がありました(今もその遺跡が多数あります)。日本の神道にもにて、神の前に出るに当って、自分で自分についてしまった汚れを洗います。しかしヨハネの洗礼はそれとは少し異なり、悔い改めのしるしであり、その際には、「罪を告白」しました。汚れを取り除く意味よりも、神の方に向き直ることが中心です。更に主イエスの洗礼は、単なる水による洗礼ではなくて、聖霊による洗礼です。もっとも使徒言行録をみますと、初代教会の頃には多少の混乱があったようです。今は、洗礼において、確かに水を用いますが、そこに神の霊、キリストの霊、聖霊が働くことを信じます。そのように神の恵みによってこそ生きる者へと生れ変わるのが洗礼です。