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これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年3月26日「十二使徒の任命」マルコによる福音書3章13~19節

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 今日の聖書箇所は、マタイやルカにもあります。マタイではもっと簡潔な記事になっています。ルカでは、事前の祈りが強調されています。マルコの特徴は、十二人を選んだ目的が最も丁寧に描かれていることです。14節後半から15節。三つのことが書かれています。なかでもまず大切なのは、「彼らを自分のそばに置くため」です。これは、訓練と派遣との循環として捉える読み方もできます。しかしやはり、たとえ派遣している間もまた、(物理的ではなく)主イエスが共におられる、主イエスのそばに自分たちは置かれているという自覚が大切です。二つ目は、「派遣して宣教」です。そして三つ目は「悪霊を追い出す」こと。宣教と悪霊の追い出しは、当時は二つにして一つのことでした。まだ新約聖書が成立する以前、教会が形を整える以前には、単に「言葉」として福音を語るだけでは伝わらないので、悪霊を追い出す権能が必要でした。しかし今は、福音を受け入れることの素晴らしさが明らかになっており、また、癒しの業が大変な誤解を生むことから、状況は変わりました。
 まず、主イエスは山に登ります(もっとも丘と訳した方が良いのかもしれません)。13節、14節前半。ポイントは、「これと思う人々」の意味です。選ばれた人々に特別な才能や力を主イエスがみたということでしょうか。そうではありません。16節以下の一覧をみますと、実に様々な人々が選ばれているのであって、選ばれる側に理由があるからではなくて、ただ主がお選びになったのです(コリント一1章26節以下参照)。そしてその者たちの最後には、イスカリオテのユダがいます。19節。マタイ28章17節も参考にして下さい。教会という私達信じる者の群れは、その最初から躓きや疑いのある弱い人間の群れです。ただ主イエスが選んだゆえに、私達は主イエスと共におり、主イエスに派遣されてこの世界に出て行くのです。

 

2017年3月19日「イエスに触れる」マルコによる福音書3章7~12節

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 今日の箇所は、前回までの箇所と次回からの箇所を繋ぐ部分です。前回は、主イエスを殺そうとする計画で終わっていました。今回の湖畔での出来事の後、主イエスは十二使徒の任命をなさり、十二使徒の派遣(6章6節~)までが一纏まりです。今日の箇所でまず主イエスは弟子たちと共に湖の方へと立ち去られます。会堂には不穏な空気が漂っており、また「家」で治癒の業や福音を語るには、人が多すぎたからでしょう。7・8節。ガリラヤばかりではなくて、多くの地域から人々が集まっています。主イエスは伝道の成功を喜ぶのでもなく、また人々を厭うのでもなく、弟子たちに依頼します。9節。実際に船に乗る場面は4章までありません。この箇所でどうであったかは分かりません。ただ、なぜ押しつぶさんばかりに群衆が集まってきたかは、描きます。10節。この箇所では、主イエスの新しい教えを聴くことよりも、とにかく病気を直してほしいということが集まってくる動機になっています。弟子たちの無理解と共に、群衆もまたまだ、大切な救いのことは分かっていませんし、十字架と復活の出来事までは、まだ、その時は来ていません。だから、主イエスは汚れた霊どもに、沈黙を命じます。11・12節。
 この箇所から三つのことを学びましょう。まず第一に、(本当には)分かっていなくても、触れようとすることの大切さです。群衆と汚れた霊どもの対比。第二に、「神の子」という正しい認識・告白が、直ちに救いではないこと。汚れた霊どもの言葉・叫びは、全く正しい。しかし、この「神の子」に従うのではなく、ただ正しい認識だけです。以前と異なり、主イエスの圧倒的な力の前に、汚れた霊どもはひれ伏すしかありません。しかし従いはしません。そして第三に既に何回かみてまいりました、沈黙命令・メシアの秘密のモティーフです。私達は、「正しい認識」(時にはそれはとても大切なことですが)よりも、まっすぐに主イエスについていく、主イエスに触れようとする生きた信仰を大事にしましょう。

2017年3月12日「主の怒りと悲しみ」マルコによる福音書3章1~6節

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 前回に続き、今回の話題も安息日です。そして今日の箇所、主イエスを殺す相談で、マルコ福音書の第一部は終わります。前回の麦の穂を摘むのと比べて、今日の方が「いやし」であり、会堂での出来事ですから、更に深刻です。今日の箇所は、主イエスの怒りと悲しみがはっきりと描かれている珍しい箇所です。5節。片手の萎えた人をいやす時に、主イエスには怒りと悲しみがあります。そもそも「人々」は、主イエスを訴えよう、陥れようという意図で注目しています。1・2節。片手の萎えた人(人間という言葉です)に対する、憐れみも同情も共感もありません。主イエスはこの人に注目を集めた上で、大切なことを問います。3・4節。主イエスの問いは厳しい。善か悪か、命(魂)を救うか殺すか。二つに一つであって、中途半端な「中間」はありません。確かに私達の生きる世界には、白か黒かではなくて灰色の部分があります。これが分からなくて常に「あれかこれか」では、様々なことを見落とし切り捨てることになってしまう。しかし信仰の決断においては、(ヨハネ福音書がそのことを強調しているように)二者択一であって、中間や傍観はありません。主イエスの問いに答える者は誰もいませんでした。「彼らは黙っていた。」だから主イエスは、怒ります。律法遵守を全てに優先する「かたくなな心」をみて、悲しみます。主イエスを十字架にかけて殺したのは、まさにこのような私達人間の「かたくなな心」です。この箇所でも、6節。普段は、全く意見の合わない・相容れない人々が主イエスを殺すために相談をはじめます。私達の「かたくなな心」こそが、主イエスの怒りと悲しみをうみ、主イエスを殺します。その私達の「かたくなな心」を柔らかくほぐすために、思いを神に向け、隣人に向けることができるように、主イエスがして下さったことを私達は受難節に当って思い巡らしましょう。

2017年3月5日「安息日は誰のためか」マルコによる福音書2章23~28節

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 前回の断食問答に続き、今回と次回の話題は安息日です。出来事は単純です。23節。彼らの行為の何が問題なのか。「盗んだ」のではありません。24節。ファリサイ派の人々が問題にするのは、安息日にしてはならないことをしていることです。麦の穂を摘むのは、収穫にあたり、安息日に働いてはならないことの中に収穫も入っているからです。このように問われたら、自分だったらどう答えるでしょう。「まあ、そんなに厳しく考えなくても…」というところでしょうか。しかし主イエスはこの問いに真正面から答えます。「安息日」に非常にこだわるファリサイ派の人々に対していい加減に答えることはできません。安息日をはじめとする律法にこだわることこそが、ユダヤ人・イスラエル・神の民のアイデンティティを保ってきたのですから。
 主イエスの答えは、三つの部分からなります。一つずつみていきましょう。第一は、25・26節。アビアタルはアヒメレクの間違いです。いずれにせよ、ユダヤ人にとって大きな誇りであるダビデまでも、律法にただ従うのではなかったという例証です。直接弟子たちの麦の穂を摘むことに繋げるのは無理がありますが、律法だからと杓子定規にしてしまうことへの反論にはなっています。第二は、27節。当時ユダヤ教の全ての派がファリサイ派のようであったわけでなく、この主イエスの発言を受け入れる人々もあったようですが、安息日よりも「人」という発言は、律法の規定によって人々を差別していた彼らには、厳しい指摘でしょう。そして第三に、28節。安息日よりも人が大切だからといって、安息日規定がなくなるのではありません。神が人のために定めてくださった安息日は、主イエスを主として今も大切です。レントの今、あなたにとっての安息日を今一度考えてみましょう。

2017年2月26日「断食とは何か」マルコによる福音書2章18~22節

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今日の聖書箇所は、断食問答です。ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々は、断食していましたが、主イエスの弟子たちはしていませんでした。そこで人々が尋ねます、なぜしないのか。18節。主イエスは答えます、19・20節。3章6節の殺す相談まで、少しずつ敵意・反感が強まっていきます。主イエスの答えは明白です。花婿である主イエスがおられるのに、断食などできない。今はそのような喜びの時なのだ。
 断食は、主イエスの山上の説教にもありますように、祈り・施しと並んで、ユダヤ教では三つの徳の一つでした(マタイ福音書6章参照)。しかし問題は、徳・敬虔が、本来は「手段」にすぎないのに、「目的化」しやすいのです。手段の目的化の幾つかの例をみてみましょう…。断食をする目的は、食べ物を絶つことで、思いを全て神様に向けることです。ところが、主イエスが批判するような「見せるための」断食になってしまったり、断食自体が目的になってしまったりします。更に、20節の「奪い取られる時」は、十字架と昇天のどちらととるかで意味が変わってきます。どちらもありえますし、キリスト教の「徳」の一つとして、断食を捉える考え方もあります。実際に断食をしている方やレントの期間の断食などがあります。しかしキリスト教は自由ですから、昇天ではなくて十字架と捉えることもできます。
 最後は二つの例えです。21・22節。この例えから、古いものを大切に、というメッセージもありえますが、むしろ、古いものと新しいものは相容れない、新しいものを受けいれるならば、古いものは断念せよ、ということでしょう。主イエスがいらしたことで、「神の国は近づいた」。だから、主イエスが共におられる神の国の喜びの先取りとして今を生きるのであって、福音という新しいメッセージに相応しく、器である私達も聖霊によって新しくなりなさいということです。あなたは福音の喜びに生きていますか。

2017年2月19日「招かれるのは誰か」 マルコによる福音書2章13-17節

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 今日の聖書箇所は、主イエスが何のためにこの地上に・私達の所へ来られたのかが、ご自身の言葉で語られています。「罪人を招くために」。この主イエスの言葉は、ファリサイ派の律法学者の批判の言葉から導き出されます。まず主イエスが徴税人レビを招き、レビが主イエスに従います。13.14節。レビは収税所に座っていますから、徴税人の総元締めのような人物ではなくて下っぱでしょう。それでも徴税人ですから、一般の人々から(特にファリサイ派のような厳格な人々から)嫌われています。そのレビの家で主イエスは食事をなさいます。15節。天国の食事の先取りです。主イエスは、そこで罪人や徴税人と共に食卓を囲みます。そしてファリサイ派の律法学者はそれを非難します。16節。彼らの常識からすれば、それはとても非常識なことでした。この箇所でマルコが強調していることは、二つあります。まず第一に、主イエスは「教えられ」ました(13節)。主イエスの宣教においては、癒しの・奇跡の業が中心ではなくて、福音が中心です。第二に、大勢の人は、「従っていた」(15節)。
 主イエスは、弟子たちに言うファリサイ派の律法学者に答えます。17節。この主イエスの言葉について、三つのポイントに絞ってみてみましょう。まず第一に主イエスが招かれたのは、最も単純に・素朴には、「罪人」だということです。当時義人は神の国に入ることができて、罪人は地獄へ落ちると考えられていました(復活を信じないサドカイ派などは別として)。しかし主イエスは、「罪人」を招いて、隔ての壁を取り払い、誰にでも神の福音が届くようにしました。第二に、それでは「罪人」ということを更に深く考えるとどうでしょうか。パウロの言葉(ロマ3章9節)から明らかなように、自分は正しいと思い込んでいるファリサイ派の人々もまた実は罪人であり、主イエスに招かれています。第三に、それゆえ私達は「罪人」として主イエスから招かれていることを自覚しましょう。

2017年2月12日「誰の信仰か」マルコによる福音書2章1~12節

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 今日から2章に入ります。今日の箇所は、この福音書で五つ目の癒しであると共に、このあと五つ続く論争の一つ目になります。1章と2章を結んでいます。4節までが状況説明です。当時の家屋は平屋一部屋が普通で、外階段があって、屋上も様々な事に使っていました。また屋根も、雨期の前に吹きかえます。だから私達が想像するよりは、屋根をはがして穴をあけるのは、困難な事ではありません。それでも、かなり大胆なことです。想像してみて下さい…。ザアカイ(ルカ19章)を思い起こさせるような必死さがこの四人にはあります。この四人と、中風の人の関係は分かりませんが、「何とかしてあげたい」という強い想い・愛があります。そして主イエスは、この四人の信仰をみました。5節。この箇所ではじめて、信仰が名詞で出てくるのですが、今までの流れからすると、主イエスは奇妙な事を言っておられるのではないでしょうか。四人の願いは恐らく「癒し」であって、主イエスの宣言なさった「罪の赦し」ではありません。しかし主イエスは罪の赦しを宣言なさる。決して因果応報ではありません(ヨハネ9章以下参照)が、この中風の人の一番根底にある問題は、罪の問題なのだと主イエスは分かっておられます。この人にとって一番大切な・必要な事は(本人にはまだ分からなくても)罪の赦しです。しかし次の数人の律法学者との対話(?)をみると、この「罪の赦し」がいかに難しく大きな問題であるかが分かります。6~10節前半。律法学者の人々の疑念はある意味で尤もです。主イエスが神(の子)であられなければ、その通り「神を冒涜」することです。しかし教会もまたキリストのからだとして罪の赦しを宣言するように、主イエスの権威として、罪を赦すことがあります。そして癒しの業があります。10節後半から12節。主イエスは中風の人の信仰ではなくて、彼を連れてきた四人の男の必死の信仰をみました。私達もまた「とりなし」の可能性を身近な不信仰の人々のために祈りましょう。