これまでの説教

日本基督教団幕張教会 早乙女哲自牧師

2017年8月20日「信じること、生きること」フィリピの信徒への手紙2章1~11節 國安敬二

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 私たちは誰でも一人で生きて行く事はできません。人は家庭をつくり、社会をつくってその一員として、共同体の中で生活するものです。それゆえ、人々は互いにその存在を認め、尊重し合って「共に生きる」ことによって、その共同体はその社会に貢献し、その役割を果たす事が出来るのです。
 そこには、個人としての人格的に自立し、隣人への愛と信頼と尊敬の念をもって共同体を形成することによって、人々は平和をつくり出す事が出来
るのです。
 何か些細な事から信頼関係が揺らぎ、人々の間で争いが起こり、平和がくずれると、その関係を修復し信頼関係を正常にするためには、長い忍耐と努力が必要となります。
 長い歴史の中で世界の人々は、戦争と平和とをくり返し継続しながら、世界の秩序を、今日の世界に、ともかくも築いてきたのでした。私たちはその歴史の中から多くを学ばねばなりません。
 今日、世界の人々が「生きる」という事は、人々が互いに「信じ合う」ように、心の一致と協力へと、向かわねばなりません。それが今日の教会の最も中心的な使命でありましょう。國安敬二

2017年8月13日「主イエスをも動かす信仰」マルコによる福音書7章24~30節

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 前回までは、イスラエルの民の話でした。主イエスが、「汚れ」とは何かについて丁寧に教えても弟子たちさえ理解しません。今日の箇所は対照的に、異邦の女、シリア・フェニキアの生まれのギリシア人の女です。24~26節。病気の子どもを持つ親の思いは、大変なものです。悪例にとりつかれているとしか表現できない子どもの病にこの母親はうちのめされていたことでしょう。何とか主イエスに癒して欲しいと願い、主イエスの前にひれ伏します。しかし主イエスの言葉は厳しい。27節。この主イエスの言葉は、主イエスの、神から「誰に」遣わされているかという自覚を正確に表しています(その後の女の反応を引き出すためだととる必要はない)。しかしこの女は引き下がりません。28節。この言葉が実に見事です。主イエスの仰ることを全く否定せず、自分の幼い娘を癒す可能性を示します。最後、29・30節。「それほど言うなら」は、以前の口語訳の「その言葉で十分である」や文語訳「なんぢこの言によりて(安んじ)往け」の方がよいでしょう。
 主イエスはこの女の信仰のどこに、自分の使命感を広げる(もはやユダヤ人にだけ遣わされているのでなくて、異邦人のためにも自分は遣わされている)ほどのものをみたのでしょう。三つのことを申し上げましょう。まず第一にこの女の信仰は、(私達がついしてしまいがちな神を脅す信仰ではなくて)ひれ伏した、へりくだったものであったことです。25節でひれ伏した後、女はひれ伏したままで主イエスと語らう。「自分(の娘)は、癒されて当然だ」という傲慢な態度ではありません。しかしまた第二に、この女には、主イエスに対する信頼が溢れています。食卓から落ちたパン屑ほどの恵みでも、癒し・救いに十分だと信じています。そして第三に、何とかして欲しいという必死さが、このウィットに富んだ言葉になっています。私達も、主イエスの前にひれ伏す信仰を生きましょう。
 

2017年8月6日「人を汚すもの」マルコによる福音書7章14~23節

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 前回と今回は(一度に取り上げることも多い位)密接に結びついています。最初に問うた「なぜ汚れた手で」という問いには、「清さと汚れ」という問題があります。汚れは外から来るもので、それを防ぐために手を洗うなどします。主イエスは、そういう発想(人間は本来その内側は汚れていない、外から来る汚れを防げばよい)を真正面から否定なさいます。15節。多くの宗教にはタブー(禁忌)があり、食物規定はその中核をなすものです。しかし主イエスは、本当に人を汚すものが何であるか見抜いておられます。弟子たちが(群衆に語られた言葉を理解しないので)主イエスは弟子たちに向かって、更に詳しく語られます。17~21節前半。説明が必要なのは、19節でしょう。全ての食べ物は、神が造られており、清いのです。しかしこのことは、使徒言行録10章をみれば分かるように、主イエスの一番身近にいた弟子たちでもなかなか理解できないことでした。
 今日は、平和聖日です。多くの戦争は、「平和のために」という名目ではじめられました。日本でもドイツでも。更にアメリカの原爆も。なぜ皆が平和を求めながら、戦争になってしまうのか。大勢の人を殺してしまうのか。人々の心から、悪い思いが出てくるからです。為政者を先頭に、しかし為政者ばかりではなくて、多くの国民(情報操作によって騙されていたとしても)が、後で冷静になればおかしいと分かるような、悪い思いにとりつかれてしまいます。21節後半~23節。私達はこの悪の現実、私達の悲惨な現実の中でどうしたらよいのでしょう。私達は私達の力で、人を汚す悪いものから身を守ることはできません。ただ外から私達にやってくる神の言葉、聖霊によって、私達は清くされます。主イエスは、そのために十字架の死を死んで下さいました。ここから出発するしかありません。

2017年7月30日「人間の言い伝えと」マルコによる福音書7章1~13節

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 前回の最後が、まとめの箇所であったことからも分かりますように、今日から新しい箇所になります。今日の区切りは、23節までと迷いましたが、短い方にしました。1・2節は、主イエスの評判が広く知れ渡るようになったので、エルサレムからもその様子を調べるために専門家が来たのでしょう。そして3・4節は、既にユダヤ人の慣習が分からない異邦人が読者であることを想定しての解説です。1~4節。出来事は、5節からはじまります。5節。この問い自体に悪意は感じられません。率直に問うているのでしょう。この問いに対する主イエスの答えでこの箇所は終わります。答えの前半が8節まで、9節から後半です。6~8節。イザヤ書29章13節、70人訳からの引用です。人間の言い伝えを大切にして、神の掟がないがしろにされている現実を指摘なさいます。更にその最もはっきりした具体例を9節から語ります。最後纏めて、9~13節。
 この主イエスの答えは、人間の言い伝えばかりを大切にすることの矛盾は、語りますが、厳密に言いますと、最初の問い、なぜ手を洗わないで汚(けが)れた(汚(よご)れたではありません、衛生的なことではなくて宗教的なことが問題になっています)手のままで食事をするのかという問いに対する答えにはなっていません(それは次回に群衆や弟子たちに語られます)。今日の箇所の「コルバン」の問題は分かりやすく、偽善者たちが、神に従っているようでありながら、様々な形で、神の掟をないがしろにしている具体例を挙げています。「神への供え物」だという留保をつければ、父母に対する養育の義務から逃れることができるという理屈です。私達の時代に、こういう問題はないかもしれませんが、私達もまた、様々な理屈をつけて、最も大切にすべき神の掟をないがしろにしてはいないでしょうか。「本当は何が大切か」を見極める信仰の眼差しをもちたいものです。

2017年7月23日「心の鈍さを越えて」マルコによる福音書6章45~56節

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 前回、主イエスは帰還した十二人をを労い、休息を与えようとなさいましたが、かなわず、五千人の給食でした。そのすぐ後の出来事です。普段は群衆の解散は弟子たちの仕事だったのでしょうが、このときは、弟子たちを休ませるためでしょうか、主イエスご自身が解散させます。45節。そして度々そうしておられたように、山に行き、祈られました。46節。47節までが、今回の出来事の設定です。48節がイスラエルにおける神顕現のことを知らないと、不思議な箇所です。モーセにも、ホレブ山でのエリヤにも、神は通りすぎるという仕方で顕現なさいました。この箇所の主イエスの「通りすぎようとされた」のは、このような文脈で読みましょう。主イエスは、神として「通りすぎようとされた」のです。しかし弟子たちには分かりません。49・50節。この主イエスの言葉も、神や神の使いが現れる時のしるしです(例えば、羊飼いに現れた天使)。
 弟子たちの心の鈍さのゆえに、主イエスはそのまま通りすぎないで、船に乗り込まれます。最後、51・52節。この弟子たちの心の鈍さの一つの頂点は、8章31節ですから、そのときにもっと丁寧にみます。ただ今日の箇所で、主イエスは、弟子たちの心の鈍さのゆえに、通りすぎないで、船に乗り込んで下さいます。先日の聖書研究祈祷会で、ローマの信徒への手紙8章が終わりました。そこには、この世界のどんな被造物も、キリストの愛・神の愛から私達を引き離すことのできるものはないというパウロの確信が述べられています。しかしそれは、私達を神の愛から引き離すものは、(この世界の様々な事柄でもなく、サタンの誘惑でさえなく)私達の心の鈍さ・心のかたくなさであることを如実に示します。だから私達は、自分の心の鈍さに注意深くありたいものです。しかし私達の心の鈍さを越えて、主イエスが私達のこの船(教会)にいつも来て下さる。この事実に励まされて歩みましょう。

 

2017年7月16日「あなた方が与えなさい」(マルコによる福音書6章30~44節)

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 前々回、主イエスは十二人を派遣なさいました。前回は間を埋める記事で、今日、派遣された弟子たちの帰還です。主イエスは弟子たちの報告を聞いて、弟子たちを労い、休息を与えようとなさいます。30~32節。ところが計画通りにはいきません。「人里離れた所」であるにもかかわらず、人々が先回りしてしまいます。33節。主イエスは身近な弟子たちの疲労よりも、集まってきた人々の必要を優先します。34節。ここでも、マルコは主イエスが「教えた」ことを何よりも大切に記します。時間が経ちます。弟子たちは、人々が各自食べ物を調達できるように、一度解散することを進言します。35・36節。しかし主イエスは、仰います、37節。男だけでも五千人もいるのですから、弟子たちが二百デナリオンものお金を使ってパンを買うのかという弟子たちの言葉はとてももっともなことです。主イエスは、「いや大丈夫だ、こうこうだから」と説明なさるのではなくて、弟子たちに命じます、38節。そして五千人の給食を行います、最後、39~44節。全ての人が満腹します。
 この記事から私達は何を聞き取るのでしょうか。まず第一に、主イエスが、必要を満たされる方、単に精神的な事柄だけでなく、実際に必要なパンの必要を満たして下さる方だということです。この奇跡は「不必要な奇跡」と言われることがあります。しかし主イエスがどのような方であるかを示すために大切な奇跡です(四つの福音書全てにあるのはこの奇跡だけ)。第二に、弟子たちの無理解です。第三に、それにも関わらず、主イエスは、「あなたがたが与えなさい」と命じられます。「無理だろう」と人間的な判断をして行わなければ、奇跡は起きません。主の命令であることが分かったならば、たとえ無理だという理性的な判断があったとしてもやってみる、ここに聖霊が働きます。私達も失敗を恐れて行わない群れではなくて、主のご命令に従いそれゆえ用いられる群れでありましょう。

2017年7月9日「罪の恐れが生むもの」マルコによる福音書6章14~29節

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 前回の聖書箇所で、主イエスは十二人を派遣なさり、次回の箇所では帰って来た使徒たちが報告をします。ですから今日の記事は、派遣と帰還の間を埋める記事です。なぜマルコは、この記事をここに置いたのか。ヨハネが実際に殺されたのは、もっと早い時期だったでしょう。しかしマルコは、あえてこの位置にこの記事を置きます。描かれているのは洗礼者ヨハネの殺害ですが、この記事を読むと、ヨハネよりもヘロデ(王ではなくて実際には領主、主イエスのお生まれになった時代のヘロデ王の子)やヘロディア、更にその娘サロメ(?)が物語の主要人物です。ヘロデ自身は、ヨハネを殺したくはありませんでした。20節。ヨハネの語る言葉を真剣に受け入れて悔い改めはしませんが、喜んでいる姿はあります。そして、ヘロディアの策略によって、殺さざるを得ない所に追い込まれます。まず、ヘロデの、「この国の半分でもやろう(23)」という誓いは、不可能です。しかしヘロディアの願うヨハネの首であれば、可能です。この時のヘロデの心の葛藤を聖書は描きます。26節。ヘロデは、自分の本当の願いよりも、自分の体面を優先してしまいました。最後に描かれるのは、自分の師を埋葬するヨハネの弟子たちの敬虔な姿です。
 私達の罪は、そしてこの罪から生まれる恐れは、主イエスの道備えをするために現れたヨハネを殺します。「正しいこと」よりも「体面」を大切にした結果です。そしてマルコが描き出すのは、そのような私達人間の罪の現実にもかかわらず、福音が告げ知らされていくという現実です。ヨハネが殺されてなお、主イエスが現れ、主イエスはご自身が福音を告げ知らせるだけではなく、弟子たちを宣教に遣わされます。この世の権力が、罪の恐れから福音を伝える者を殺しても、福音は広がっていく。まさに主イエスの十字架と、十字架を越えて広がる福音の現実の予表がここにあります。